事務レベル協議を進めることを確認
第12回厚労大臣との定期協議
原爆症認定問題に関する厚生労働大臣と日本被団協・原爆症認定集団訴訟原告団・同弁護団との第12回定期協議が1月20日、厚労省で開催され、全国から被爆者など約70人が参加しました。
冒頭、上野賢一郎厚労大臣と箕牧智之日本被団協代表委員が挨拶し、家島昌志日本被団協代表理事の司会進行により協議が開始されました。



被爆者の苦しみ

「被爆者として生きた80年」を、横山照子代表理事と金本弘代表理事がそれぞれ発言し、国家補償の原爆被害者援護法も核兵器廃絶を被爆者が生きているうちに実現できるよう訴えました(2面と3面に発言全文)。
上野厚労大臣は、80年間の大変な思いがよくわかった、行政を進める思いを新たにした、高齢化を踏まえてやっていく、などと述べました。
原爆症認定制度の問題
弁護団事務局長の宮原哲朗弁護士は、原爆症認定の「審査の方針」は政治判断で改訂されてきたと述べ、裁判結果に即した認定への大臣の英断を迫りました。村田未知子原告団事務局は、認定申請時の添付資料が年々細かく要求されるようになっており、申請する被爆者の負担が重くなっている実態を、愛須勝也弁護士は、多くの人が距離と時間で切り捨てられている実態を訴えました。
上野大臣は、新しい科学的知見がないので新たな審査基準の改訂はないと断言。大坪寛子健康・生活衛生局長は、ルールが必要なため範囲を決めている、個別に総合判断もやっている、新しい知見が得られれば取り入れていくと述べました。
日本被団協の要求
濱住治郎事務局長と児玉三智子事務局次長が、日本被団協の要求について発言。政府高官の非核三原則見直し発言を批判し、核兵器禁止条約への参加、放射能影響に限った現行法の見直し、介護手当診断書の見直しと手当増額、二世検診の内容見直し、証言活動への支援などを求めました。
上野大臣は、非核三原則については8月の広島・長崎の式典で総理が言った通りである、証言活動は尊いことなので応援したい、介護手当の増額は予算が厳しく大幅な引き上げはできない、手当診断書については事務的に相談しできることは対応したい、などと述べました。大坪局長は、証言活動支援については研修を受けた人に限る、二世の被害について結論が出ていないので有症状でない人への検査は行なわない、手当診断書は検討する、などと述べました。
憲法に則った行政を
締めくくりのあいさつで田中重光代表委員は、なぜ進展しないのか、死者への償いは何もない、軍人軍属のみに補償がされているが、同じ国民で戦争の犠牲者なのに現憲法の中でこんな差別があっていいのか、被団協の運動がノーベル賞を受賞したことを国はどう評価しているのか、国民に寄り添い憲法に則った行政を、と述べました。
上野大臣は、こうした場を継続し聞く努力をしていく、と述べました。
事務レベルでの協議を
診断書の内容等、事務レベルでの協議を今後すすめることを確認し、定期協議を終えました。
核兵器禁止条約参加のための国会での審議 一日も早く
日本被団協が解散前全国会議員アンケート

日本被団協は昨年11~12月、衆参の全国会議員713人に核兵器禁止条約に関するアンケートを行ないました(それぞれ事務所に郵送)。8項目の設問内容と回答の詳細はホームページに掲載しています。党派別回答数は別表のとおり。主な設問と回答数を紹介します。(8は複数回答可)
1.日本政府の核兵器禁止条約への参加について
①署名・批准する…立憲61、維新2、国民9、公明14、れいわ12、共産15、社民2、沖縄2、無所属5
②参加しない…回答なし
③その他…立憲16、維新4、国民6、公明3、無所属1
5.2026年11月の核禁条約再検討会議までに日本が批准しない場合
①オブザーバー参加して趣旨への賛同を表明…立憲69、維新2、国民14、公明14、れいわ12、共産15、社民2、沖縄1、無所属5
②オブザーバー参加するが、趣旨には反対…回答なし
③オブザーバー参加の必要はない…公明3
④その他…立憲3、維新3
8.国会審議を深めるため必要なこと
①請願をだしてもらう…立憲31、維新1、国民6、公明5、れいわ10、共産15、社民2、沖縄1、無所属3
②各党に審議機関設置…立憲23、維新2、国民4、公明5、れいわ10、共産5、社民2、沖縄2、無所属1
③被爆者や学識者を招いた公聴会…立憲54、維新2、国民10、公明14、れいわ12、共産15、社民2、沖縄2、無所属3
④特別委員会の設置…立憲25、国民5、公明5、れいわ5、共産5、社民2、沖縄1、無所属2
⑤その他…立憲20、維新1、国民5、公明4、共産2、社民1、無所属1
*
国会議員713人のうち回答は147人で5人に1人の回答でした。政権与党の自民党はゼロ、維新は5人(9・4%)の回答です。野党の立憲も73人(39%)しか回答を寄せていません。
日本被団協は2月3日記者会見を開き「国民の7割が条約への署名、批准を求めているなかで、国会議員の核兵器禁止条約への関心の薄さ、遅れを感じざるを得ない」とし、「日本政府が核兵器禁止条約の署名、批准にむけ国会で直ちに審議に入ることを求める」と表明しました。
〈座標〉
国連と日本国憲法80年、日本被団協70年
一人ひとりの命の尊重を
2024年12月10日のノーベル平和賞受賞以来、日本被団協と各県被団協には国内外からたくさんの取材や講演依頼がつづき、私たちは戦争も核兵器もない世界をと訴え続けています。
ところが新年早々、トランプ政権が南米ベネズエラの首都を軍事攻撃するとともにマドゥロ大統領夫妻を拘束し、世界を震撼させました。また、グリーンランドの領有権を主張して、NATO諸国に圧力をかけています。
ロシアのウクライナへの攻撃も続いており、今、世界は、大国による「脅し」と「力の支配」が横行し、無秩序、無規範の政治が行なわれています。トランプ大統領は「私に国際法は必要ない、私を止められるのは私だけだ」とまで言い放ちました。
国連が創設され80年。第二次大戦の反省に立って作り上げられ、国際社会における平和と安全の維持を目的とし、国連加盟国が批准している国連憲章が無視され、否定されています。世界がこれを許せば、戦争も原爆の投下も許すことにつながります。
日本被団協は今年結成70年を迎えます。自らの体験を通じて人類の危機を救うと世界に訴え、ふたたび被爆者をつくらないために、戦争を起こした国の責任でその被害を償うよう求めてきました。
今年はまた、憲法制定80年の年です。武器を持たず軍隊も持たないと決めた憲法9条--戦争になれば核兵器が使われ、人類そのものの生存が問われることになる、だからこそ、紛争の解決は力でなく対話を、と求めているのです。
人間一人ひとりのいのちが尊重されなければなりません。子どもたちの夢や希望を叶えるためには平和が必要です。憲法9条を世界の規範にしなければと、強く思います。
熱烈な歓迎と交流
南フランス19市町村を訪問
日本被団協・原水協代表団
日本被団協は昨年11月18日~12月1日、フランス平和運動の招きで、日本原水協の代表4人とともに松浦秀人、本間恵美子両代表理事を南フランスに派遣しました。
マルセイユで記者会見のあと、代表団は2つのコースに分かれて19市町村を訪問。学校や地域の集会で、多くの子どもや市民に原爆被害の実相を伝え、核兵器廃絶を訴えました。
「日本被団協ホール」と命名
松浦秀人

核保有国のフランスで、南仏の自治体、学校(中学、高校)、市民団体を回って、被爆証言をし熱烈に歓迎されました。
とりわけ学校や市民団体では原爆写真を展示し、「反核平和」などの習字を貼り出し、或いは「いらっしゃい」などの横断幕を吊るすなどして歓迎してくれました。
ここでは、モンペリエ市の公立クロワ・ダルジョン中学校について記します。
歓迎の合唱やダンス、記念の植樹祭そして昼食後に教室に戻り、私たちのスピーチとそれへのQ&Aを行ないました。その後に教室の入り口に案内されました。入り口には風呂敷状の布が垂れ下がっており、それは目隠しで、取り除くと固定された銘板があり、そこに「Nihon Hidankyo」の文字が。私たちがスピーチした教室を、「日本被団協ホール」と命名したとのこと。銘板には私を含む代表団3人の個人名を記して2025年11月27日に命名を行なった旨を記していました。日本被団協にとっても3人にとっても非常に名誉あることであり、特記する次第です。
ともあれ、全ての訪問先で熱烈な歓迎を受け、それに応えるためにも心を込めて証言をしました。熱い拍手からして、聞き手の心に伝わったのだろうと自分に言い聞かせながらの旅でした。
国を超え世界平和希求
本間恵美子

被団協がノーベル平和賞を受賞して1年余。しかしその思いを踏みにじるかのように世界各地で戦争が続き多くの犠牲者を出し続けています。
そんな中、11月中旬から2週間、フランスの平和団体の招聘でマルセイユを中心に18カ所での講演や会合に参加しました。フランスはご承知の通り核保有国です。到着した途端聞いたのが、フランスの政府高官が「国民は子どもたちを失う覚悟をせよ」と言ったと。何と怖しいこと、フランスは戦争体制の準備をしています。「子どもは国の宝!」つい語気を強めてしまいました。
被爆体験の無い二世の私で役目を果たせるのか不安の中での出発でしたが、知人の被爆体験や被団協や私の思いを話しました。「ノーベル平和賞を受賞した日本被団協のメンバーが来てくれた」と、訪問先では大歓迎。特に小さな村や市の自治体の首長が真剣に核兵器廃止や平和に向き合う姿を心強く思いました。名誉市民のメダルの授与や名前入りの記念植樹の看板設置は、日本被団協のノーベル平和賞受賞がいかに人々の心を動かしたかの証拠です。
原爆投下後の様子や復興についての質問もあり若い人や子どもたちも熱心に耳を傾けていました。国を超え世界平和希求の強さを感じました。
被団協が声明
日本被団協は1月15日「トランプ大統領のベネズエラに対する暴挙に抗議する」との声明を発表し、米国大使館に郵送しました。
声明では、トランプ大統領の指示によるベネズエラへの軍事作戦とマドゥロ大統領拘束を「国連憲章も国際法も無視した暴挙」と糾弾。「核保有国が核による威嚇や国家の主権を奪うことが続けば、核兵器が使われる可能性が高まります。核保有国の暴走は絶対に許せません」とし、日本政府へも「平和国家として武力ではなく対話による解決を図るべきと、はっきりと抗議の意思を表明」を求めました。全文はホームページに掲載。
〈定期協議発言〉
核攻撃で起こったこと
横山照子
今、世界で初めて核攻撃を受けた広島・長崎の体験が忘れられていると思わざるをえない動きが起きています。核攻撃によって何が起こったのか、私と家族の被爆体験をお話しします。
当時、私の家族は祖父母、父母、それに私たち4人姉妹の8人でした。私は三女で4歳でした。1945年7月、アメリカの爆撃機が、長崎市に通常爆弾を落としていきました。空襲からのがれるために、2人の姉と私は祖父母に連れられて、田舎に疎開しました。長崎市の自宅には、両親と1歳4カ月の妹・律子が残りました。
その直後の8月9日、長崎に原爆が落とされたのです。自宅は爆心地から4㎞のところにありました。妹の律子は、庭で裸になって遊んでいました。母は爆音から爆撃機の来襲を知り、律子に服を着せようと、部屋の中から「リッちゃん」と呼んだとたん、目のくらむような閃光が走りました。母はとっさに妹の上へ、自分の身体をかぶせました。あたり一面真っ暗になり、金色の砂のようなものが降ってきたそうです。窓ガラスは粉々になって、壁に突き刺ささりました。母と律子は庭に伏せたため大きなケガを免れました。
父は三菱電機の工場に勤めていて、爆心地から1・2㎞の淵国民学校で被爆しました。三菱電機が校舎を工場にして、学生たちを働かせていました。校舎の中にいた父は、爆風で運動場を越して、崖下まで数十メートル吹き飛ばされました。
母は律子を背負って、父を捜しに行きました。しかし、爆心地から2㎞以内は火の海で、先に進めませんでした。母が父と再会できたのは、原爆から4日目の8月13日、会社の防空壕でした。父の眼は両方とも紫色に腫れあがり、顔からは血が噴き出て、唇はめくれ、身体全体が焼け太っていました。この世の人とは到底思えなかったそうです。
防空壕の中は、むしろを敷いただけで、負傷者の吐しゃ物・汚物・ウジ虫でグチャグチャの状態でした。とても妹を下に寝かせることができず、母は15日の終戦まで、妹を背負ったまま過ごしました。
父は右眼の失明だけで、命は助かりました。しかし原爆の影響は生涯続きました。朝、会社に出勤しようとして、玄関で動けなくなっている父の姿を、私たち家族は何度も見ています。原爆ぶらぶら病だったのです。その後も、腰の骨折の後遺症や肝臓病、甲状腺の異常で少しの移動もきつそうでした。父は肺がんで72歳で亡くなりました。
私は原爆投下の9日後、疎開先から祖母に連れられて、長崎に戻りました。あたり一面焼け野が原で、身体中に何とも言えない恐怖が押し寄せ、「死の町」に立ち入ったようでした。私は祖母のモンペをしっかりつかんで「ここどこ?ここどこ?」と少し歩いては聞き、少し歩いては聞きしたことを、今でもはっきり覚えています。
妹の律子は、原爆の翌月の9月から声が嗄れ、喉が「ゼイゼイ、ヒューヒュー」と鳴り、苦しみを訴え、泣き続けました。5歳の時、喉の手術を受けました。妹は、小さなかすれ声しか出なくなりました。入退院の繰り返しで、妹は、3年遅れて中学校に入学しました。しかし、中学1年生の一学期しか登校できず、44歳で亡くなるまで病院生活が続きました。20代半ばの頃、律子は「私は家族の重荷になるばかりだから死にたい」と言い、自分の将来を描くことさえできませんでした。亡くなる前は両眼とも失明しました。律子から「わたし何重苦?何の罰を受けているの?」と問われ、私は何も言えませんでした。律子は、読書、習字、手芸が好きで「勉強が足りない」と、いつも呟いていました。戦争さえなかったら、原爆さえ落とされなかったら、律子の人生は素晴らしい道があったはずです。私は妹のことを思い出すと、切なくて、悔しくて、戦争・原爆への怒りがこみ上げてきます。
被爆3年後に生まれた末の妹にも、小学校入学の頃、紫斑病が襲いました。被爆直後、身体に紫色の斑点が現れて、死んでいった人が多くいました。その恐怖の紫斑が、妹の身体に発症したのです。どうにか命は助かりました。
我が家では、いつも誰かが入院していました。母が看病していました。その母も64歳のとき胃ガンで亡くなりました。疎開先からいち早く長崎に帰った上の姉は、白血病で亡くなりました。下の姉は、皮膚ガンに始まりいろんなガンにかかり、胆管癌で死亡しました。
戦争が終わっても、ずっと原爆の病気と不安がつきまといます。原爆は死ぬまで苦しみを与え続けます。
大臣にお願いいたします。
私たち被爆者が日本原水爆被害者団体協議会=日本被団協に集って70年。「世界中の誰にも自分たちのような被爆者にならないでほしい」と活動を続けてきました。しかし、そのための国家補償に基づく原爆被害者援護法も核兵器廃絶も実現していません。被爆者が生きているうちに実現できるように、お願いいたします。
〈定期協議発言〉
生き残った被爆者として
金本 弘
私は生き残った被爆者の思いを大臣に訴えます。
私は広島の被爆者です。生後9カ月、15歳の姉に背負われ、爆心地から2・5㎞地点で被爆しました。姉の話では、2人とも崩れたがれきの下敷きになり、真っ赤に染まった血だらけの私を見知らぬ男の人が助けてくれたそうです。ピカ、ドンと爆発の瞬間、原子雲上空5000度、爆風は一瞬にして広島を死の街に変えました。
赤く焼けただれ、膨れ上がった屍の山、眼球や内臓の飛び出した死体、黒焦げの満員電車、倒れた家の下敷きになり生きながら焼かれた人々。髪を逆立て、ずる向けの皮膚をぶら下げた幽霊のような行列。人の世の出来事とは到底言えない無残な光景でした。わが子や親を助けることも、生死をさまよう人に水をやることもできませんでした。
このような状況の中で、「防火用水に私を逆さに入れ、口からがれきを吐き出させ、頬を叩き、揺すり、泣くまで介抱し続けてくれた」男の人が本当にいたのか、疑問を抱えたまま、私は被爆証言を続けていました。2024年まで、「神様のような人間」の存在を信じていました。
2023年11月に姉が亡くなった後、2枚の手記が見つかりました。1枚目は「男の人」に助けられた、と、2枚目には「父親に助けられた」と記されていました。にわかに信じられず、確信を得るまで時間がかかりました。15歳の姉は、いつも見ている優しい父親と違う、被爆し無残に変わり果てた男の人を、父親と認識できないほど錯乱していたのでしょう。被爆2年後に父は死にました。自分の死を覚悟してまで私を助けてくれた父に、「今、生きている喜びと、アリガトウ」と感謝を伝えたいが、伝えられない無念さもあります。
私は11人きょうだいの末っ子です。これまで原爆で亡くなった9人の兄姉の死を、病院のベッドで見届けました。原爆の怖さ、放射能の恐怖を知り、被爆者はガンで死ぬんだ、いつか自分も、と不安になりました。そして、いつしか「私は絶対病院のベッドでは死なない。私は自分の家で家族に見守られ往生するのだ」と決心するようになりました。
私たち夫婦はともに被爆者で、81歳になりました。互いの家族に被爆者がおり、被爆の話はしませんが、これからのことは話します。妻は自分の母親を広島から名古屋へ引き取り、私の母と2人を介護しました。2005年から2人が亡くなるまで、我が家は被爆老人4人の生活でした。介護の苦楽を経験しました。私が初めて母の介護を手伝ったとき、妻が急に泣き出し驚きました。後に「嬉しかった」と聞かされた時、家族介護の厳しさを知りました。また、家族介護手当を受給した時、大変喜んだことを忘れません。
私は「今、生きている喜びを、往生際まで持ち続けたい」と思っています。
大臣にお願いします。生き残った被爆者が安心安全に暮らせる援護を、被爆者が信頼し信じることができる厚労省であってほしいです。
核禁条約発効5周年 各地で
富山

日本政府に核兵器禁止条約への参加を求める富山の会は1月22日、富山駅南北自由通路で駅利用者に核兵器廃絶の大切さを訴えました。
会員約20人が参加。日本政府に核兵器禁止条約への批准を求める署名活動、写真やイラストのパネル展示で核兵器の恐ろしさを伝えました。
同会の足立千恵子事務局長は「5周年の節目となる今年は、原爆被害をよく知らない若い世代向けの活動に力を入れたい」と展望を語りました。
(小島貴雄)
宮城

1月22日、戦災復興記念館にて「核兵器禁止条約発効・核廃絶ネットみやぎ発足5周年、記念イベント」が開催され、約60人が参加しました。
開会挨拶で木村緋紗子代表が、共に活動を続けてきた多くの方々への感謝を述べました。
塚野淳一さんのチェロと叶千春さんのバイオリンによる二重奏のあと、日本反核法律家協会会長の大久保賢一弁護士が講演(写真)。被爆者を先頭とした反核運動が核兵器使用を抑止してきた力であると述べ「反核・平和運動は不滅、今こそ踏ん張り直す時だ」と訴えました。(核兵器廃絶ネットワークみやぎ)
広島

1月22日、広島では被爆者や市民団体が街頭署名やキャンドルイベントなどで、日本政府に条約への参加を求め、核戦争の防止を訴えました。
平和記念公園では、被爆者7団体に県原水禁、県原水協など9団体が加わり総勢61人が街頭に。政府内に渦巻く非核三原則見直しや核保有の言動への批判が相次ぎ、30分間で199筆の署名が寄せられました。
夕暮れ時、原爆ドーム前に約100人が集合。約1500本のろうそくで「NO MORE HIBAKUSHA」などの文字を浮かび上がらせました。
核兵器をなくす日本キャンペーンの、各地をつなぐオンラインイベントに広島会場から5団体の代表が5年間の取り組みを報告、今後の決意を述べました。(田中聰司)
集会や共同行動にとりくみ
北海道

被爆二世を中心に、被爆者、一般市民で構成する被爆二世プラスの会は11月23日、今年度の集いを開催しました。
ノーモア・ヒバクシャ会館(札幌)を訪ね、広島を巡って平和学習に取り組んだ札幌西高定時制の生徒有志が「80年前に何が起こったかを忘れずに生活したい」と報告。手作り絵本や鳩の刺?で「一人でもできる」継承活動に取り組む会員の活動も紹介(写真)されました。
*
12月8日、北海道被爆者連絡センターは生協連、平和運動フォーラム、原水協とともに記者会見し、「核兵器も戦争もない世界を、ともに」との共同アピールを発表、日本政府にも速達で送付しました。
4団体はかつてヒバクシャ国際署名に取り組んだ事務局団体です。7月の日本被団協、原水禁、原水協の共同アピールを踏まえて今出来ることは何かと話し合いました。核兵器禁止条約が発効した1月22日には共同の街頭宣伝活動を行ないました。(北明邦雄)
市町村議会で被爆証言を
しらさぎ会

埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)では、昨年10月から県内63市町村議会すべてに「被爆者の声を聴く証言会」の開催を求めてきました。
全議会・議長宛に手紙を送付。議場での証言会開催が難しい場合は代替案をと依頼し、返信を待ちました。県庁記者クラブで会見、3つの新聞社が記事にし、広く県内に告知してくれました。
その結果、15を超える議会から回答があり、1月19日現在、6議会で証言会を開きました。
12月の越生町議会では全議員と町長や職員、傍聴の市民を含む50人を前に、しらさぎ会の三松保則会長が証言。証言を聞いた議員からは「議会人として、不戦の誓いと核兵器の廃絶をしっかりと訴えていくのが重要な使命の一つであると決意を新たにした」等の感想が寄せられました。
すべての議会での開催を目指し、粘り強く求めていきます。
次は市町村の教育委員会に、教員の研修や学校での平和講演会などに、被爆者の声を聴く証言会開催をと求めていく予定です。(議会への要請文はQRコードで)
(佐々木孝夫)
被爆者運動を歴史的に捉える
継承を考えるミーティング

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は12月13日、「これからの継承を考えるミーティング」を開催しました。
まず話題提供として、本会所蔵史料の整理に協力し、研究に取り組む昭和女子大学「戦後史史料を後世に伝えるプロジェクト」を指導する松田忍教授が「日本被団協関連文書の可能性~被爆者運動を歴史的に捉える意義」を報告しました。
2013年度から昭和女子大の学生が被団協関連文書の整理に協力、18年度に同プロジェクトが発足し被爆者運動の歴史的意義を考察する研究が始まり、毎年大学祭で企画展を開催。被爆者運動を通じて戦後日本の歴史を深く理解できる可能性を示しています。
「あの日」の体験にとどまらず、現在まで続いている原爆体験、政府の被爆者援護との関連、国家補償を求めること、被爆者同士や様々な人とのつながり。原爆がなかったらあり得なかった人生を継承することの重要性を強調。報告の後、参加者によって活発な議論が交わされました。
このミーティングは、今後も継続して開催します。(継承する会)
〈相談のまど〉
一人暮らしの高齢被爆者
地域包括支援センターとつながりを
【問】妻をなくして一人暮らしの兄のことでご相談したいのですが。
兄はこれまで活溌に外出したり、被爆者の会の活動にも参加していたようです。離れて暮らしているので最近の様子は詳しくはわかりません。買い物や食事の準備などはなんとかしているようですが、電話で話していてエーッと思うことが出てきました。子どももいなくてこれからのことが心配です。弟の私も被爆者で体調も思わしくなく、手伝いに行くこともできませんが、このままにしておくわけにはいかないと思っています。
* * *
【答】お兄さんはお連れ合いをなくして一人で頑張ってこられたのですね。兄弟といってもお互いに年を取り、なかなか支援することも難しくなります。お兄さんは人に頼らず自分で何とかしようと思っていらっしゃるかもしれませんし、まだ始末しなければならないこともあると思っているかもしれません。でも80歳代半ばを超えると、いつ何が起こるかわかりません。
まずは、お兄さんが住んでいる地域の地域包括支援センター(地域によっては名称が異なることもある)に連絡しておかれたらどうでしょうか。自治体の介護保険課に聞けば連絡先を教えてくれます。
地域包括支援センターは、高齢者が住み慣れた地域で、安心してその人らしい生活を続けることができるように、様々な相談や必要な支援につなげる役割を持ち、保健師、社会福祉士と主任介護支援専門員の3人が配置されています。
介護保険申請は本人か家族でないと申請受付をしてくれませんが、離れて暮らす家族が連絡を取り介護申請の相談をするとか、友人や近所の方が一人暮らしの高齢者の様子が気になるという場合にも、相談があると高齢者本人を訪問したり、電話連絡を取ったりしてくれます。一度ではうまくいかない場合は経過を見て、必要な支援や対応をしてくれることになっています。
ですから、お兄さんが住んでいる地域の地域包括支援センターに連絡を取って相談してみてください。何かあったとき連絡をくれれば自分が責任を持つ、と伝えておけば支援センターの職員も安心すると思います。
すぐには介護保険サービスが必要でなくても、一人暮らしの高齢者を見守るなど対応してもらえるという場があれば、あなたも安心できると思います。
スイスの大学で平和イベント
カメリア日本人会会長 ボスカート陽子

スイス、ティチーノ州ルガーノ市にあるUSIルガーノ大学で神学部が中心となり、「ヒロシマ・ナガサキ80年、平和への呼びかけ」と題するイベントが11月12~28日に開催されました。
19日には、第二次世界大戦末期に世界を震撼させた歴史的悲劇-広島と長崎への原爆投下-の記憶を継承し、現代社会における平和の意義を問い直すことをテーマに、専門家を招いたカンファレンスを開催。州全域の若者から大人まで幅広く無料で公開され、原爆の悲劇を再認識し次世代が歴史を学ぶ貴重な機会となりました。
イベントは、2024年ノーベル平和賞が日本被団協に授与されたことに象徴される、国際社会における平和希求への関心の高まりと軌を一にするもので、大学がこの世界的な潮流と連帯し、地域社会から平和へのメッセージを発信するものとなりました。
同日、特別企画としてカメリア日本人会による「折り鶴のアトリエ」から始まり、ルガーノ市副市長、ティチーノ州文化局長、在ジュネーブ日本領事館首席領事らの挨拶のあと、広島平和記念資料館提供の、被爆者八幡照子さんの英語での証言ビデオを上映。米国ボストンカレッジのアンティオニー・ユーセル教授による歴史的背景の説明と投下時に長崎在住であったイタリア人宣教師の言葉や録音テープなどを聞きながらの講義がありました。チューリヒ工科大学のアンナリーサ・マンェラ教授の講義は、原子爆弾と核の平和利用、特に現在スイスが抱えている原子力発電所問題や福島原発の処理水の海洋放出についての説明など一般市民にとって興味深い内容でした。
イベントの最後は和風の料理と飲みものが振舞われ、参加者が意見交換する時間となり、平和のシンボルの折り鶴を作ることができて嬉しいとの声もいただきました。
欧州で安全保障見直しの傾向のある現在、このような企画がヒロシマ・ナガサキが発信し続けている平和への訴えを考える機会になって欲しいと願ってやみません。
日本被団協 活動日誌
日本被団協の各種会議や行動について、日付順に報告します。
| 12月 |
|---|
| 02日 事務局会議 03日 賞金検討委員会 08日 事務局会議 09日 組織・情宣部会 10日 代表理事会 12日 二世委員会 22日 事務局会議 24日 定期協議打合せ 26日 定期協議事前折衝 |
| 1月 |
|---|
| 07日 機関紙編集委員会 14日 事務局会議 19日 事務局会議 20日 厚労大臣定期協議 21日 実相普及委員会 21日 二世委員会 21~22日 相談所委員会 26日 政府国会対策委員会・総会議案起草委員会 |